AX ZONE0467: 坂田庄次さんについて

2012年03月19日

坂田庄次さんについて

2012takumi.jpgもうすぐ北鎌倉「匠の市」。
この立ち上げに尽力したのは、先日亡くなった坂田庄次さんだった。

坂田さんの話を記しておきたい。
長いけれど、北鎌倉の人はぜひ読んで欲しい。

うちの父と坂田さんが友達だったので、私は子供の頃からお世話になった。
鎌倉に戻ったら畑をやろうと決めていたのも、子供の頃、今のノース菜園を坂田さんと父が一緒に耕していた記憶があったからだ。
話をしに行くと、彼はたいそう喜んで、「でも香織ちゃんに畑なんてできるかな?」と言いながら、快く土地を提供してくれた。

私が北鎌倉を離れている間に、地元のシンボルのひとつである、栗田邸がマンションになった。

その景観をめぐって、坂田さんは粘り強い反対運動と改善策を申し入れてくれた、そのおかげで、私たちには季節のシンボルだったハクモクレンの大木は、切り倒されずに済んだ。
移植がまずかったため、枝振りも、花も、以前のようなものではないにせよ、だ。


もうひとつ、地元のシンボルは、今は無き好々亭の「赤トンネル」だ。
これは横須賀線の線路際にあるので誰でも目にしていると思う。
この赤トンネルのある山は、悪質業者によって開発され、マンション建設の計画が進んだが、これも坂田さんが意を決して反対活動に尽力し、長い長い交渉の末、ようやく市がこの土地を買い上げてくれるところまでもっていった。
ただ、それが実行される日付を待たずして、彼は逝ってしまった。


彼の訃報は、私が石巻に行く前日の夜中に飛び込んできた。
早寝しようと思っていたのに、ショックや連絡で、早寝とはならなかった。
石巻から戻り、葬儀の場で私が聞いたことは、耳を疑う内容だった。

もともと建築家だった坂田さんは、齢70超にして、今後の人生を石巻の復興に尽力する気でいたというのだ。
政府が出した堤防のプラン、漁師を高台に住まわせる策を無謀だとして、自ら別プランを作成し、提出していたという。
そしてそのプランは評価され、実現にあたり、坂田さんは自ら石巻に居を移す計画をしていた矢先だった。
「何年かかるかわからないが、向こうが落ち着いたら、北鎌倉に戻るよ」と侘助で漏らしていたという。
棺の中の坂田さんの胸に、その分厚い計画所が置かれていた。

彼は頑固で、気難しいところもあったけれど、ある頃から本気で北鎌倉の活性に人生をかけていた。
畑の件で酒を飲みに行ったとき、その本気さに私は驚いた。
そのやり方や、発想は、年相応だったのかもしれないが、誰がそれを非難できる?
やらないヤツよりやるヤツだ。

彼のことだから、石巻の件も本気だったんだと思う。
北鎌倉を離れたことのない人が、そこまでしようとしていたのだから、志半ばでさぞ無念だったことだろうと思う。
落ち着いた頃合いを見て、その計画について、詳しいことを聞きにいってみようと思う。


北鎌倉にはそんな人もいた、ということだ。
絶対に忘れたくはない。

庄ちゃん、本当にありがとうございました。
どうぞ安らかに。
そして上から北鎌倉を見守っていてください。
posted by 0467 at 14:21| Comment(1) | 鎌倉 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。坂田さんが建てられた家で夫婦でお世話になっている者です。今日、初めて、坂田さんが亡くなられたことを知り、とてもショックを受けました。もっと話せていたら、と、妻と一緒に悔やんでいたところだったので、坂田さんが最期にしようとしていたことを知ることができて、嬉しかったです。ありがとうございました。
Posted by 伊藤 at 2012年03月26日 21:57
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