AX ZONE0467: Libro

2011年03月07日

松林堂で『「鎌倉の碑」めぐり』を買った

この前、懐かしい東急前の松林堂に寄ったら、
こんな本が平積みになってて、なんとなく買ってしまった。
鎌倉の碑」めぐり


文体というよりは印刷の書体に、かーなり昭和を感じさせるので、
よく見たら80年代に出た本らしい。

・・・まあ、書体って大事だなと思った次第。

ボチボチ読むことにします。


鎌倉の碑めぐり
鎌倉の碑めぐり


51GK117KHKL._SL500_AA300_.jpgところでなんで松林堂が懐かしいかというと、

子供の頃、当時「ツルコミックス」から出ていたピーナツブックスの

シリーズのほぼ全巻を、この松林堂で買ったから。
(私はこのピーナツシリーズによって、
ちょっと不条理な視点とか、シニカルな笑いについて教えられた)


今では敷地の半分がエクセルシオールカフェになっちゃったけど、

まだあるってことが嬉しい。

今、あのピーナツシリーズは、谷川俊太郎の役のヤツじゃなく、
英語版であればAmazonで若干手に入るみたい。

A peanuts book featuring Snoopy (2)





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2011年01月16日

【読書メモ】『日本人はなにを食べてきたか』(4)

日本人はなにを食べてきたか (角川ソフィア文庫)


【茶の湯と茶懐石】

懐石料理と茶の湯。

もともと懐石とは、禅の修行僧が空腹の際に温めた石を懐に入れてしのいだ、「温石」に由来。
茶会に出されるささやかな食事を意味した。詫び茶。
近世後期の料理屋で出される「会席料理」は「茶懐石」から茶の湯を除いたものとして区別する。

茶の湯の起源は鎌倉期の禅宗寺院にある。
もともと茶は薬用だった。

利休による詫び茶の大成で、茶懐石はひとつの頂点に。
それまでの本膳料理が儀式的な性格だったのに対し、茶懐石では数少ない料理に趣向を凝らし、研ぎすまされた四季の季節感や旬を重視する材料の取り合わせ、料理と器の調和など、今日の日本料理の基礎ができた。

利休の死後、門下の七哲
千少庵・道庵、細川三斎、織田有楽、古田織部。
大名茶人、小堀遠州、金森宗和、片桐石州などによって茶の湯は全盛期


『古今料理集』(1669〜1674年)
近世料理所の最高峰と言われる。

元禄期になると町人が力を持ち、飲食がさまざまに楽しまれるようになった。
茶屋もしくは料理屋的な店が出現するのは元禄期。
京都祇園八坂神社前の二軒茶屋、円山の時宗寺院では本格的な料理を出す貸席料理屋営まれた。

『七十五日』(1787年)江戸飲食店名鑑。今日のガイドブック的なもの。

食べることの「遊び」化。
「八百善」では料理切手を発行。高額商品券のようなもの。50両相当。
八百善の茶漬け。春に珍しい瓜、茄子の粕漬けなどが出される。
そのため江戸近郊の農家では野菜の促成栽培が行われていた。
油紙を張った障子を用いて、ゴミを燃やして温める、ビニールハウス的な栽培法。
魚や鳥の飼育。


【西洋料理の始まり】
明治維新、西欧文明の積極受け入れによって肉食が解禁される。
明治4年(1871年)初めて西洋料理が宮中の食卓へ。
天皇の食膳にも、牛、羊、豚、鹿、兎などが出された。
民衆へも牛鍋が普及。
実際はそれまで食されていた伝統食が表面化したに過ぎない。
福沢諭吉、森鴎外などは肉食の推進派だった。
一方で、肉食の解禁により穢れを招いて社会が混乱すると考える人々もいた。

明治初年に横浜に西洋料理屋「開陽亭」。日本人ではなく西欧人を相手とした。
明治6年、築地に「精養軒」、同9年には上野に支店。
地方にも広がり新潟の「イタリア軒」、仙台の「ブラザー軒」。
高級役人や銀行家、政商などが主な利用客。

福沢諭吉。「開発不可能な土地を水田化するよりも、茶や桑を植えて外国との貿易を盛んにし、衣食住に関わる生活必需品も輸入に頼ればいい」と説いた。
明治16年(1883年)日本のコメの生産量を3000万石、うち食料としてのコメは2500万石と推定。
当時の人口が3,500万人。1日一人あたり1合9勺となり、当時の生産量がいかに少ないかを示している。

植民地の朝鮮と台湾においてコメの大量生産をし、本土の需要に応えようとした。



【敗戦と食料危機

昭和に入ると、日本文化の再評価に拍車がかかり、日本料理が新たな展開。
北大路魯山人による斬新な料理、吉兆の湯木貞一による日本料理の革新。

太平洋戦争で料理文化の発達は望めず、食料不足の深刻化。



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【読書メモ】『日本人はなにを食べてきたか』(3)

日本人はなにを食べてきたか (角川ソフィア文庫)


【武家の本膳料理】
もともと貴族の従者として誕生とした武士は、自前の文化を持っていなかったため、公家から儀式、作法などを学ぶ必要があった。
武家の食膳の形式や内容は、公家の文化を取り入れたに過ぎない。

『尺素往来』に本膳料理の記載あり。
本膳、追膳、三膳、大汁、小汁、凍汁。

現在に伝わる料理書で最古のものは
鎌倉後期とみられる『厨事類記』。公家の御膳の書。
平安〜鎌倉期の料理に関する知識を集めたもの。
料理の内容、並べ方、食器の大きさや用い方、調理の方法、材料の扱い方など。

『武家調味故実』16世紀初頭。
公家の四条隆重という人物から伝授された四条流の伝書。

『大草流膳部聞書』室町期。
武家の本膳料理を担当する料理流派。
大草公以『式三献七五三膳部記』。



【近世社会と石高制】
江戸幕府。
律令体制以来の強力な中央集権国家。
石高制。コメが経済の基礎に置かれている。

秀吉の太閤検地により、領主的な武士による中間搾取の排除に成功。
検地では、それぞれの耕地面積の確定と、耕地の生産高を見積もり、質と量を計算して年貢高が決定された。
その際、耕地は水田だけでなく、畑や屋敷も含まれるが、作物の種類に関わらずすべて耕地をコメの生産力に換算し、基本的にはコメで徴収された。

コメを生産する農民は雑穀食。
支配者である武士がコメを主食とする。
身分制度による秩序意識の形成が、コメを中心とした年貢の収奪体制とともに図られた。

肉食の否定も江戸時代が最高潮。
さらに「生類憐れみの令」によって、動物を憐れむことで肉食を否定し、農耕を中心としたコメ社会の推進になった。
狩猟の厳禁によって、田畑の開発が進行するが、鳥獣が増えて農耕の害敵となってしまった。


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